「お江戸日本橋七つ立ち」の歌で知られる日本橋。 江戸幕府が整備した中山道など5街道の基点です。 江戸と京都を結ぶ中山道は、東海道より少し距離が長いものの 川止めなどの困難が少なく、ことに女性の道中に愛用されました。 ここを出発してビルの谷間を進み神田へ入ると、神田明神は今も多くの参詣客で賑わっています。さらに先へ進むと、東大の赤門の近くに「追分の一里塚」があります。そこには、江戸時代から店が続き、いまは9代目という酒屋さんがありました。


中山道は山手線の巣鴨駅の先で国道17号線と分かれ細い商店街に入ります。とげぬき地蔵として多くの参拝客で賑わう高岩寺前の通りです。その先で板橋宿に入ると、宿名の由来となった橋が今も石神井川にかかってます。現在はコンクリート製の橋ですが、かつては板の太鼓橋でした。近くの和菓子店の店内には、昔の橋の写真と、橋をモチーフにした最中が並んでいました。

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中山道は戸田の渡しで荒川を越え蕨宿へ入ります。かつて賑わった蕨宿も明治時代に鉄道が離れたところに通ったことから、賑わいは次第に駅周辺に移っていきました。蕨市立歴史民俗資料館には、江戸時代の宿の姿を再現した模型があります。関東大震災のときには、東京から歩いて避難する人たちで中山道が往時の姿を取り戻したそうです。

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浦和宿の入り口にある「焼米(やきごめ)坂」には、江戸時代、いまの煎餅のようなものを売る店が並んでいたそうです。坂を越えて浦和宿に入ると、調(つき)神社があります。この神社は、入り口に狛犬ではなくウサギが置かれていたり、鳥居がなかったりと、一風変わった神社として知られます。そして、旅人は焼米坂ゆかりの煎餅店を訪ねます。

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浦和宿は、旅籠の数は少なかったものの、本陣は大規模で、いまは表門だけが移転され残っています。宿の中心部にある玉蔵院は、江戸時代、関東の十大仏教学問所のひとつに数えられた名刹。その庭にある枝垂れ桜は、浦和の名所のひとつとなっています。この先の中山道沿いには、かつて賑わった浦和の市場を示す碑や、幕末の頃に世間を騒がせた仇討ち事件を伝える一本杉などがありました。

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さいたま新都心のすぐ近くに武蔵一ノ宮、氷川神社の参道入り口があります。この参道は、江戸時代に中山道が整備されるまで街道として使われていました。大宮宿の歴史を語るものは年々少なくなっている中で、画家の秋山静子さんは変わりゆく大宮を絵によって記録し続けています。旅人は秋山さんのアトリエを訪ねます。

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上尾宿の本陣は江戸、明治の大火で焼失し、跡は残っていません。この宿では火事が多かったことから、屋根に魔除けの鬼瓦をのせる家が増えました。するとその向かい側の家では、鬼より強いといわれる鐘馗様を屋根にのせるようになり、道をはさんで鬼瓦と鐘馗様がにらみ合うようになったそうです。いまでも残るその跡を訪ねます。

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中山道6つ目の宿、桶川は江戸時代から紅花の産地として知られ、米や麦の取引も盛んでした。江戸に向かう旅人にとっては最後の宿場になるため、幕末の皇女和宮の一行もここを最後の宿にしたそうです。当時の本陣の一部が今も残っています。旅人は、江戸時代の旅籠から続く、武村旅館を訪ねます。

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人形の町として知られる鴻巣。戦国時代に京都からやってきた人形師が人形を作り売ったのが始まりといわれます。江戸時代には桐のおがくずを使った人形づくりが隆盛をきわめ、多くの人形たちが中山道を通り全国へ旅立って行きました。雛屋歴史資料館では、そんな人形作りの歴史を知ることができます。旅人は郷土玩具の「赤物」作りを伝承する親子の仕事場に行ってみることにしました。

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熊谷宿に入る手前に「権八延命地蔵」があります。歌舞伎「鈴ケ森」に登場する白井権八がここで旅人を斬り金を奪った時、地蔵に「今のことを他言するな」というと、地蔵が「わしは言わぬがぬしも言うな」といったという伝説が残っています。その先にある江戸時代から続く茶屋「みかりや」で旅人は「ゆべし」を味わいます。そして宿の手前で、忍道(おしみち)を行き、忍城を訪ねます。

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熊谷宿の中央に宮沢賢治の歌碑があり、その歌に詠まれているのは「平家物語」での平敦盛とのエピソードが有名な熊谷直実。旅人は直実ゆかりの地を訪ねます。熊谷宿の本陣は残っていませんが、本陣の別邸「星渓園」が現存しており、旅人は夕暮れの庭園でピアノを奏でます。

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深谷宿は江戸時代、中山道の整備にともなって作られた新宿のひとつで、戦国時代は上杉氏の領地で深谷城がありました。日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一の故郷であり、深谷ネギの産地として知られます。本陣跡には上段の間や皇女和宮のはいたという草履などが残っています。旅人はレンガの煙突が立つ造り酒屋を訪ねます。

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現在の本庄宿には江戸期の建物などはあまり残っていませんが、明治の洋風建築がいまでも使われ、モダンな雰囲気を漂わせています。そのひとつである旧本庄警察署の建物は現在、市立歴史民俗資料館に姿を変え、また、銀行の倉庫として建てられたレンガ造りの建物は、洋菓子店として使われています。

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本庄宿の北にある大光寺には見透(みとおし)灯篭と呼ばれる大きな常夜灯が残っています。この灯篭は江戸時代、近くを流れる神流川をはさんで武州側と上州側の両岸に立てられたもので、川を渡る目印となっていました。栄泉が本庄宿を描いた浮世絵には大名行列が神流川の橋を渡る様子が描かれ、その橋のたもとにこの灯篭が立っています。

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中山道を北上し、神流川を渡って上野国に入ると最初の宿が新町宿。芭蕉や一茶ゆかりの場所が残っています。江戸時代からの小林本陣はいまもその子孫によって受け継がれており、当時の日記や、各藩の印が押された貴重な宿帳などが残されていました。旅人は、本陣の伝統を守る親子に、代々語り継がれてきたエピソードなどを聞きます。

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倉賀野宿の東の入り口には、江戸時代に多くの寄進者を募って立てられた常夜燈があり、そこは中山道と日光例弊使街道の分岐点となっています。この宿では、橋の石垣や神社の玉垣に飯盛り女たちの名前が残されています。そのいわれを倉賀野神社の宮司さんに聞きます。

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倉賀野宿はかつて、近隣の産物を江戸へ運ぶ舟運で栄えました。 明治時代に高崎線が開通するまでは、烏川の河岸が大きなにぎわいを見せていたそうです。 そんな宿の歴史を調べ、訪れる人に手作りの資料を使ってガイドをしている人がいます。旅人はその人に、宿の歴史やガイド活動について話を聞きます。

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高崎宿に入る手前で中山道は佐野道と合流します。佐野道はかつての鎌倉街道であり、近くにある常世神社は「いざ鎌倉」の語源となった謡曲「鉢の木」の舞台となった場所。城下町である高崎はいまでも昔の地名が残っている所が多く、地名もひとつの文化遺産となっています。旅人は、昔のにぎわいを取り戻そうと奮闘する商店街の人に話を聞きます。

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いまも残る中山道28里目の一里塚、藤塚の一里塚の南に少林山達磨寺があります。昭和初期、この寺の境内で、ドイツ人の建築家、ブルーノ・タウトが暮らしていました。タウトはこの地で、上州の風と人情にふれながら日本文化を研究しました。当時のタウトを知る人に、その暮らしぶりなどを回想してもらいます。

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板鼻宿の浮世絵の題材を探していた栄泉は、芭蕉の句をヒントに、白一色の雪景色の中に鮮やかな色彩が浮かび上がる風景画を完成させました。その絵に描かれた橋の供養塔がいまでも残っています。板鼻宿の本陣跡には、皇女和の宮が宿泊したという書院が保存されており、そこには要人を護衛するための特別な仕掛けがありました。

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城下町のたたずまいを見せる安中宿。城址近くには武家長屋や郡代官役宅などが保存されています。安政の頃、当時の安中藩主が藩士を城から碓氷峠の熊野神社まで走らせた「安政遠足」は、いまも「侍マラソン」と呼ばれ、引き継がれています。参加者は武士や足軽などの仮装姿で、中山道を走ります。

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安中には、ステンドグラスが美しい安中教会があります。この教会は同志社大学の創立者、新島襄の講演を聞き洗礼を受けた人々によって設立されたものです。新島襄は安中藩江戸屋敷で生まれ、渡米して帰国後、中山道を通じてキリスト教の布教活動を行いました。旅人は教会でオルガンを奏で、その足跡を訪ねます。

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松井田宿の中山道から妙義山へ向かう道は「妙義道」と呼ばれます。妙義山の麓にある妙義神社は山岳信仰で栄え、江戸時代には将軍家や大名にも崇拝されました。松井田宿には、街道側に梁を出し、2階を広くした「出梁(だしばり)の家」が残っています。そして、五料の茶屋本陣はいまも人々の交流の場となっていました。

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明治26年、アプト式列車の採用によって碓氷峠を越える横川〜軽井沢間の鉄道が開通し、横川は鉄道の町として栄えました。しかし、長野新幹線の開通とともにこの路線は廃線となり、今はその一部が往時をしのぶ散策路となっています。横川駅近くにある茶屋本陣では今も人が暮らしており、囲炉裏の火が旅人をあたたかく迎えてくれました。

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碓氷峠の入り口に上野国の中山道西端の宿、坂本宿があります。峠を越える旅人の休息の場として大いに栄え、今も当時の面影を残す屋号が街道沿いの家にかかっています。宿の中には栄泉の絵にも描かれた用水が流れており、今でも生活に使われています。交通の変遷とともに盛衰を繰り返した宿の歴史を訪ねます。

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坂本宿を出て碓氷峠へ向かうと、廃線となった信越線のアーチ橋「めがね橋」のすぐ下に、旧中山道の入り口があります。ここから上信国境の熊野神社まで約8キロの峠道。雪の残る坂道の所々には街道らしさを感じさせる石塔が立っていました。ようやく熊野神社に到着した旅人は、日本橋からの中山道の旅を振り返ります。

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